鐘秀館
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近江商人と長浜商人
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19.図書館、博物館の建設
鍾秀館 二代目・下郷傳平は、図書館と博物館建設の初代の遺志を守って、明治36年、父の七周忌を記念して長浜の駅前通り西本町に下郷共済会を設立した。次いで大正4年、付属文庫(図書館)を開設した。さらに大正9年、同地に博物館と美術館を兼ねた陳列館を建て鍾秀館と命名した。

博物館については、初代・傳平が早くから建設を企画し、明治25年にその建築設計書と完成予想図まで用意していた。
鍾秀館は大正10年(1921年)県下初の美術館、博物館として開館した。防火、盗難、耐震の設計上の苦心を自慢した鉄筋コンクリート3階建て、総工費6万2182円、当時としては珍しい建築物で、後々の長浜市民が教育、文化の面で広く利用し下郷共済会文庫とともに親しまれた。
下郷共済会は公益法人として出発し、二代目・傳平はその基金として1万円を寄付した。鍾秀館の所蔵品は、天皇家、宮家に関するものの他、下郷家の先祖の餅伝当時の営業用什器、石器時代の土器、古墳発掘品、古美術工芸品、古文書史料、武家文書、長浜祭礼史料、図書館、武具、刀剣、貨幣、新美術品、その他莫大な数量となっていた。この他、二代目は町民のスポーツ振興にと大正7年運動場「長陽園」を創設した。

大正4年建設の文庫(講堂と図書館)は西本町10(現元浜町)の下郷家所有の土地2835平方メートル(859坪)に設け、政治、経済、法律、文学、歴史、天文、数学その他各般の図書を充実し、時には各界の知名人を招いて後援会を開いた。
運動場・長陽園は、北船町の下郷家所有の面積2200平方メートル(667坪)で各種運動機具の他、相撲場、テニスコート、休憩場を備え、火災や地震の際の避難場所の目的も兼ねたが、大正十四年、当時の長浜町当局の要請もあって長浜に寄付され幼稚園になった。
長浜に寄付され幼稚園になった。
財団法人・下郷共済会は、社会福祉事業、奨学教育賃金貸与、図書館、博物館、運動場運営等を目的とし、知育、徳育、体育への寄与を事業化した。
下郷家は設立当時の1万円のほか、天皇の即位や二代目夫妻の銀婚式、その他記念の祝意に昭和18年までに現金35万8000円、不動産20万4000円を同会に寄付している。また同族からも6万円寄付。別に本家と同族から同会の経費に合計12万2000円を補助している。

尚、西本町の下郷共済会の土地は、江戸期、長浜の十人衆、三年寄の一人・下村藤右衛門屋敷跡、北船町の長陽園(運動場)は同様、十人衆、三人寄の実力者吉川三左衛門屋敷で、いずれも江戸期下郷家と婚姻による親戚であったため、初代・傳平がこれを保存するため確保しておいた。
(現在は滋賀銀行長浜駅前支店となっている。その向かいに四代目下郷傳平壽太郎らが鍾秀館を再興した。)
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20.趣味豊かな文化人
伊吹山高層気象観測所 二代目・下郷傳平は図書館、博物館のほか、大正7年(1918年)には伊吹山高層気象観測所の建築費を寄付し、昭和4年(1929年)には日仏文化事業に尽くした功績によって、フランス政府から勲5等龍星章を贈られている。

又ドイツ文化研究所理事長の功によってドイツから文化勲章を贈られている。なお初代の建てた八幡町の別荘向陽館は敷地2000平方メートル。初代の貴族院議員当選時の首相だった山縣有明が明治21年1泊した由緒ある建物で、この時山縣は「湖天風雪入長浜」と大書した横額を贈っている。
編注: この額は長浜日赤の西の信行会本堂にある。
向陽館は後にヤンマーディーゼルの創業者・山岡孫吉の別荘となった。

別荘向陽館
長浜案内 二代目・傳平は昭和21年(1946年)75歳で他界したが、彼の建てた下郷共済会の図書館は大正から昭和20年頃にかけて多くの人の教養と学術研究に役立った。館内は閲覧室の他に大ホールがあって、政談演説会などにも用いられ現在の市民会館的役割をも果たした。
下郷共済会(長義堂文庫長)は文化事業として「長浜案内」(昭和10年10月15日発行)を出版、「長浜町志」、「近江窯業の変遷」「滋賀県蚕業史」を編纂した。文庫図書館は戦後数年を経て洋画専門館から東映映画劇場となって映画ファンに馴染まれたが、図書類の多くは長浜市へ寄贈された。

図書館の西に建てた3階建ての博物館(鍾秀館)は今も駅前通りに県農協連のJA支所事務所として往時をしのばせている。
二代目は財界や政界で活躍したばかりでなく趣味豊かな文化人としてその交友は多方面に超一流を網羅していた。例えば文展にあき足らない京都画壇の中堅たちを声援して、その自由書壇の後援者に下郷と大谷尊由(西本願寺宗主光瑞の弟、拓務大臣)が就任している。その同志には池田桂仙、上田萬秋など異彩が加わった。また、陶芸の清水六兵衛、漆芸の神坂祐吉、彫刻の溝口安太郎らの集まりである美工院の顧問にも迎えられている。
彼は俳句をよくして号を五一庵とも春雨とも称した。天竜寺管長・関精拙とは無二の友人で、同寺内にある多宝殿再建の奉賀幹事長の功績で道号を贈られ、生花については、花術本山銀閣慈照寺免許の腕前だった。
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