大津から京都へ流れる琵琶湖水は、明治23年(1890年)竣工したが、それまでは紆余曲折があった。京都市がこれを計画して国に申請したのは明治15年ごろであったが、時の滋賀県知事籠手田安定が猛反対した。疎水によって湖水が減り、農業用水を失うだけでなく、船の運航の支障、魚介採集の不利な魚民の死活問題を反対理由にした。知事の反対説に県下の有力者が同調し、県民世論は反対説に傾いた。
当時の北垣京都府知事は京都商工会議所の高木文平会頭を口説いて政界の要路に滋賀県知事の異動を、同時に政府の実力者井上肇に疎水事業の認可を運動させた。この結果、中井弘が滋賀県知事に籠手田は島根県知事に移動となった。中井弘知事は、県下の有力者や議員に疎水の国家的有用性を説き、水力発電や製造工業、運輸面での実用性から、これに対する理解を訴えた。中井の熱意に下郷傳平、小泉新助、浅見又蔵、外村宇兵衛らが協力を約し、反対派の説得に当たった。なかでも下郷、小泉の努力が大きく影響して県民世論は次第に賛成に固まった。当初計画70万円を大幅アップした250万円の設計で内務省の許可がおりたのは中井知事の骨折りと県民世論をひっくり返した下郷、小泉らのおかげであると京都側は感謝していた。
疎水工事は明治23年4月9日完工式をあげ、天皇、皇后が臨席された。この時内大臣三条実美公爵が天皇に供奉し、大津の白玉町の下郷邸を宿舎とした。1600平方メートルの屋敷で、西は白玉町通り、東は湖岸道路を隔てて琵琶湖に接する風光の秀れた屋敷であった。
三条公を迎えた下郷は家門の栄誉として公を歓待した。後に三条から贈られた記念の書は、家宝として同家に残されている。書は大幅と額の2種あり、額は力強い筆法で「瑞色含春」と書かれている。ちなみに、大津の下郷邸は後に売却されて紅葉館となった。
下郷傳平は明治20年ごろから歿年の同31年にかけて滋賀県きっての豪商となったが、彼の足跡は事業家としてだけでなく、彼の投じた一石が教育、産業、地方自治、その他に大きな影響をもたらしたことが余りにも多い。例えば、彼の率先した1000円の寄付行為が明治18年の県庁新築の予算の議決に影響している。県庁は明治21年6月まで約17年余り、三井寺の円満院を借りていたが、老朽化と不便なため明治18年新築案が提議された。しかし、県会では不況などの社会情勢から一部に時期尚早の意見もあったが、これを押し切る形で賛成派が力を得たのは民間人の力強い寄付申し入れであった。
新庁舎は現在地の大津市京町通り四ノ宮油の東に立地し、煉瓦造り2階建で、予算は5万7,459円だった。これに対し下郷の1000円を筆頭に8人で3000円寄付が収入に当てられ、残り5万4,459円を地方税でまかなうことにした。この間の経緯を記す珍しい文章が湖北町下山田に伝わっている。
明治18年の年末、県庁の幹部だった湖北町下山田出身の北庄義一(慶応大出身、後養蚕組合長)が同地の有力者・山田林右衛門春太に送った手紙である。以下、本文を現代風に要約して転載する。
「今回の通常県会(明治18年12月)も前年より特に変わったこともなく、大津において商業学校の新設が決議されました。県庁はこれまで円満院を仮庁舎としていましたが、今度、県令(知事)より新築の議案が提案され、本日より審議にはいりました。
概要は予算約6万円にて、既に大津において篤志など1万円余りに達しました。篤志の最も著名なるものは、下郷傳平(長浜)の1000円で、薮田助平(大津)500円、古野仁平(同)が400円、高谷光雄(同)300円その他。尚閉会は26,7日ごろとなりますので、一月に一度休暇を取って帰村します」
恩人に宛てた近況報告であり、春太家は絶えたが今も林右衛門屋敷跡は存在している。この手紙の始めに出ている商業学校は、県下初の滋賀商業(後の八商)のことで、この創立にも下郷は知事を補佐して有力近江商人の協力を得ている。
なお、明治18年12月総会で可決した県庁は明治21年6月に完工した。そして築後50年事業として昭和14年、現在の4階建てに改築された(当時の予算200万円)。
ついでながら、明治21年の県庁新築に伴い、県会議場もこれまでの仮議場だった別所村(膳所)勘業場から新庁舎内に移転した。
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