下郷傳平は、江戸後期から明治の初期にかけて、始めは家業(餅伝)の餅屋に精を出したが、親から背負った莫大な借金返済のため手を換え、品を換えて儲かる商売に手をつけていった。そのうち運び屋や賃仕事では間尺に会わないと悟り、骨董商、油屋、肥料屋、米屋等、扱い商品の間口を広げ、相場にも手を出した。株式や土地の売買にも独特のカンを働かせて雪だるま式に財をふくらませていった。しかし、油、肥料、米などの売買には、多額の資本を必要とした。20代前後の彼は片方で商売に奔走しながら他方では金策に苦労した。彼が商人として順調に伸びられたのは、必要なとき賃金を用立ててくれる金方に恵まれたことだった。
一つには彼の真面目な働きぶりが評価されたのであるが、大事なのは返済の約束を硬く守り、金利を先方の望むまま綺麗に支払ったことの信用であろう。長浜時代の彼の金方は吉田治兵衛(治平、後に治朗と改名)、横田立吉、石居四郎平らであった。しかし、世間では彼が相場をやることを恐れて、簡単に右左に融通はしてくれなかった。
そのころ世間では、「餅伝の市右衛門か市右衛門の餅伝か」といわれたが、それは餅伝に信用がないので、市右衛門(木村)の裏判(保証)で借りていたことを意味する。
傳平25歳前後のときの借金の申し込みの手紙が残されていた。傳平が親しくしていた金方の吉田治兵衛に宛てたもので下郷久道伝に記されている。金30両の借り入れ申し込みであるが、なかなか面白い。要点を現代訳で紹介する。
"昨日は突然参上いたしご馳走に相成り有り難き幸せと存じ厚くお礼申しあげます。さて、たびたびご無理をお願い申し上げますが、差し当たり商品仕入れのため賃金が入用となりご無心をお願い申し上げます。
金30両借用申したく何分宜しくお頼み申し上げます。
誠にたびたびのことでお頼み申しかねますが、何分貴殿のご援助によって商売しております私ゆえにお見捨てなくお聞き届け下さいますようお願い申し上げます。条件は貴殿のご意向に添いますのでなにとぞご融通方宜しくお願い申し上げます。
正月11日 下郷傳兵衛"
吉田治平翁
15歳で家業を継いだ下郷傳平は、餅屋、骨董商の他19歳で米屋を開業した。
米屋は彼の最も得意とした分野で、明治元年26歳の時米穀売買所を長浜に開設し、旧彦根藩年貢米代用券の売買を行った。これが後の長浜取引所となる。また、米屋の他に種油商を開業し、店員を各地に派遣して東は三重県四日市、北は敦賀、小浜、西は大津、京都へ販路を拡張した。
明治7年、36歳でさらに肥料商を加え、35歳で大津支店、37歳で西京支店を開設するなど商売はとんとん拍子に成功し、
運気は上昇気流に乗った。餅伝本来の餅屋は明治9年、34歳で廃業したが、そのころから彼は大津支店を本拠に米と油の相場師として向かうところ敵なしの勢いだった。彼は相場師としての度胸と先を読むカンの働きに天性と資質を備え大胆にして緻密だった。
彼は相場師の反面、家業の種油商をこつこつと地道に経営することを忘れなかった。
近江商人らしいエピソードがある。彼は店頭の柱に太く長い竹筒を掛けて置き、毎日、売上高の一割を初穂としてこの中に納めた。一旦入れたお金はいかなる事情があっても決して使用を許さず、まとめて貯蓄した。
彼は明治3年(1870年)28歳の時、御堂前の酢長・上野良太郎の母の口利きにより、懇意な吉田治平夫妻の媒酌で御堂前の富田林平の長女こと子(後にみつと改名)と結婚している。みつ夫人は、豪商として聞こえた近江商人が、本宅を妻にまかせて、江戸、大阪、京都などで活躍した流儀そのままに下郷の留守宅を預かって夫の大成を陰で支えた。
家事と子女の教育は言うまでもなく、男女奉公人の指導と監督の内政の他に、親戚近隣の交際を夫に代わって一切を取り仕切った。
下郷は大津支店で米や油に相場を張っていたころはきわめて多忙で長浜の家に帰る事は珍しかった。たまに家に帰っても子供たちは寄り付くこともなく、居間にくつろぐ傳平に向かって「お帰りやす」の挨拶をすませて母親のもとに引き下がるのが常であった。家の中では、厳格な父親だったらしいが、仕事オンリーで家庭に埋没する性格ではなかった。
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