直江兼続は、会津城主・上杉景勝の圭臣で石田三成とも親しかった武将。
本書は、徳川家康の宗教ブレーンとして知られた臨済宗の僧・西笑承先に宛てた書状で、慶長5年4月14日付。
俗に、直江状と通称される。会津若松で新城の建設や道路・橋梁の整備を行い、領国経営にあたっていた景勝に対し、これを合戦の準備であるとして、徳川家康が上洛して弁明するよう求めた。
また、承先からも景勝への説得が試みられた。この書状は、承先からの質問への返事の体裁をとっている。
現在、直江状の原本は伝来していないので、学問的には直江兼続自身が、当時書いたものかについては議論が分かれるところである。しかし、江戸時代には写本が多く作成され、巷間(こうかん)に多く流布した。直江状の多くは編纂物に引用されており、原本の体裁を残した巻子状で残る本書は、類例が少なく貴重である。越後村上城主・村上義清宛の徳川秀忠書状が見返しに朱筆されており、本暮の伝来は同家と密接に関連するものと考えられる。
関ケ原合戦の翌日(慶長5年9月16日)、徳川家康(1542〜1616)が浅井郡の7ケ村に出した禁制。
7ケ村は、津里村・今西村・延勝寺村(以上、湖北町)、落合村・錦織村(以上、ぴわ町)、中野村・唐国村(虎姫町)で、冒頭に村名が記されている。この他にも、伊香郡内の12ケ村宛(古橋村高橋家文暮)など、近江国内では9通の同文の禁制の存在が知られている。
前日の関ケ原合戦では、徳川家康と石田三成が戦い、敗戦した三成は逃亡したが、その居城である佐和山(現在の彦根市内)では、一族らが籠城し臨戦状態にあった。さらに、三成の逃亡先が、湖北であるという情報もあった。
この情況下で、新たなる合戦が近江で起きる可能性もあり、宛先になっている村々が相談し、あらかじめ家康に禁制を求め、兵馬によって村が荒らされることを防いだものと見られる。
織田信長朱印状 祭主宛(「藤波文書」の内)
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豊臣秀吉朱印状 祭主宛(「藤波文書」の内)
前田玄以等六奉行連署状(前欠)
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浅野長政愛知川町掟書
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直江兼続書状写(直江状) 豊光寺承兌宛
徳川家康禁制 浅井部津里村等7ケ村宛
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藤堂高虎書状
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須藤通光書状 長浜町御宿老宛
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