伊勢国松ヶ島城または松坂城(三重県松阪市所在)の城主であった蒲生氏郷(1556〜95)が、祭主藤波家に祈祷札及び帯5本が届けられた礼を述べた文書。本書は、氏郷の初名・賦秀(ますひで)の名で署名している。
蒲生氏郷は天正12年(1584)の小牧・長久手合戦の直後、蒲生氏累代の本拠であった蒲生郡日野から松ヶ島へ転封されており、そこを拠点に伊勢国の支配を行っていた。本書は、この転封間もない頃に出されたもので、氏郷が国内の寺社勢力との連携を図っていたことが知られる。
【天正12年(1584)〜天正18年(1590) 縦17.1cm×横48.2cm】
伊勢神宮の本殿建替え(式年遷宮)について、金銭の奉加を行うようにとの綸旨(天皇からの文書)を承知したことを、近江国南部を支配した戦国大名・六角義賢が、伊勢神宮の祭主・藤波家に伝えた書状である。
六角義賢(1521〜98)は「承禎」と号し、天文21年(1552)に父定頼から六角家を継承した。永禄11年(1568)、織田信長の上洛への協力を拒否、信長から攻撃され南近江での支配権を失っている。しかし、天正元年(1573)の浅井氏滅亡前後までは、南近江でゲリラ戦を展開し信長に反している。六角氏は第13代の室町将軍・足利義輝の時期(天文末年〜永禄初年)、室町幕府を支える最大勢力で、朝廷をも保護する立場にあったと考えられ、本書もそういった経緯で出されたものであろう。
【天文23年(1554)〜永禄8年(1565) 縦18.1cm×横47.2cm】
関ヶ原合戦の後、大坂の陣までの間、幕府の近江直轄領(天領)代官であった豊島作右衛門忠次(〜1643)が、山(一緒に表具された近代の添紙によれば姓は山本とする)甚七なる人物に対して宛てた書状。先日は雨が降っていたのに帰宅されたのが、たいへん名残惜しかったと述べ、自分の妻が腹痛を起こし頭痛がするので、差し遣わした馬に乗って至急駆けつけてくれるよう依頼している。さらに、謡曲の本があれば持参して欲しいことも申し添えている。作右衛門の来訪依頼の目的が、妻の急病にあるのか、謡曲本にあるのか、真意ははかりがたいが、幕府代官について、このような仕事以外の一時的用件を記した書状が残るのは稀で、作右衛門の人物像を知る上で興味深い内容である。
なお、宛名の「山甚七」なる人物は、医師と推定できる。豊島作右衛門は、長浜市加田町にある神田溜(豊島池)を造成した代官として著名であるが、残した文書は少なく、本書は私的な内容とはいえ、その人物像に迫る貴重な資料である。
【慶長5年(1600)〜慶長19年(1614) 縦31.4cm×横45.4cm】
浅井長政像
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徳勝寺授戒帳
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織田信雄書状 祭主権副宛
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蒲生氏郷書状 祭主権太副宛
六角義賢書状 祭主二位宛
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豊島作右衛門書状 山甚七宛
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