15〜16世紀の大航海時代、ヨーロッパでは航海技術と測量技術の進歩によって、世界地図の制作が飛躍的に発展しました。そして黄金の国「ジパング」と謳われた日本への憧れとともに、極東への進出と勢力圏の拡大にとって、いかに正確に東アジア地域の地図を描いていくかということが、ヨーロッパの人びとにとって重要な課題でした。 一方日本では、1543年の鉄砲伝来を機にヨーロッパとの交流が始まり、「世界」に向けて目を開いていくことになります。それまでの日本人にとって世界といえば、日本とから唐(中国)、天竺(てんじく)(インド)のいわゆる「三国」。これは、仏教的世界観からもたらされたものでした。そして、それまでの日本地図もいわゆる「行基図」と呼ばれる、円で囲んだ国を並べて位置関係を示し、京から伸びる街道を朱線で示すという非常にシンプルな形をしたものでした。 ヨーロッパからもたらされた世界地図と、日本独自に発展してきた日本地図は、安土桃山時代の末に出会い、江戸時代を通じて互いに影響を与えながら、洗練され正確さを増していきます。その一方で、しばしば一対をなす屏風の題材となり、室内を飾るなんばん南蛮趣味の調度品として好まれました。 このような屏風を見た当時の日本の人びとは、異国情緒を楽しむ一方で、「世界の中の日本」という存在を強く意識したことでしょう。世界図と日本図それぞれに描かれた日本は、成り立ちが異なることからまったく違う形をしていることも少なくありませんでした。それまで自分たちが知っていた日本と、はじめて知った世界から見た日本。その違いを、日本人はどのように受け止めたのでしょうか?そして、ヨーロッパ中心の地図の上で、東の隅に小さく置かれた自分たちの国をどのように見つめたのでしょうか?
【制作年代】 作者は不明ながら、日本図屏風の「本朝皇統暦数図」では、後光明(ごこうみょう)天皇(在位1643?54)を現在の天皇とし、世界図屏風の「異朝暦代皇統図」には、中国・明の弘光元年(1645)の年号が見られることから、おおよそ江戸時代前期、17世紀中頃の制作と考えられます。かの有名ないのう伊能忠敬(ただたか)が文政4年(1821)に完成させた『大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)』に先行すること約150年。鎖国(1641?1853)のさなかでの、当時の日本の世界観と、海外との文化交流を示す一例として、貴重な資料といえるでしょう。 解説文 市立長浜歴史博物館 担当 秀平文忠殿