長浜焼は、明治初頭のわずかな期間に、長浜の杏屋(きょうおく)によって焼かれた一代限りの湖東焼で、別名「長浜湖東焼」ともいいました。
杏屋は本名、西村善吾(にしむらぜんご)。長浜の南船町(現在の朝日町)の漢方医で、慶応2年(1866)頃から趣味として、湖東焼の上絵付を手がけました。そして明治3年(1870)、自宅に窯をつくり、湖東焼の職人を陶工に迎えて、本格的に絵付をはじめました。
しかし、経営難のため明治6年(1873)に廃業。わずか8年ほどの操業でした。杏屋のほかに「杏園(きょうえん)」「杏翁(きょうおう)」などと号し、特に杏翁銘は明治5年から翌年の廃業までの2年間にのみ使用されたことが知られています。
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やきものには土器、陶器、磁器があります。土器と陶器は粘土が原料ですが、磁器の原料は陶石。ガラス質の成分(ケイ酸)を多く含んでいて、高温で焼くとその成分が溶け出し、透明感のある白い地肌になります。形をつくって乾かしてから「素焼き」をし、素地の上に下絵を描いて「本焼き」、そして上絵付(うわえつけ)をしてからもう一度焼きます。
中国では、14世紀に染付(そめつけ)の技法が開発され、高級陶磁器として世界中に好まれました。日本では、17世紀になってはじめて絵付けの磁器が佐賀の有田でつくられました。彦根藩も藩の経済力の活性化と、大老(たいろう)職をつとめる家柄にかけて、高級磁器の生産を積極的に押し進めました。
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素焼きしたあと、白い素地の上に呉須(ごす)(青色の絵の具)で図柄を描き、上ぐすりをかけて高温で焼き付けます。すると、白地にコバルトブルーの鮮やかな絵柄になります。素地の表面と上ぐすりに色が染みついたように見えることから、染付と呼ばれています。
呉須は焼き付けるまでは真っ黒なため、塗っているときは濃淡の具合がわかりません。そのため呉須の絵付けは非常にむずかしいといわれています。
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湖東焼といえば赤絵金彩。
素焼き・本焼きののち、ベンガラ(赤色の絵の具)で図柄を描いてからもう一度焼きます。
そして、その上から金泥(きんでい)(金をニカワで溶いた絵の具)や金箔(きんぱく)で文様などを描いて、さらにもう一度焼き付けます。都合、素焼き・本焼き・赤絵・金彩と4回窯に入れることになる、非常に豪華で手間のかかる焼きものなのです。
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彦根に集まった職人たちは、各地の焼きものの技術を湖東焼に「写し」ていきました。
さまざまな色彩で絵付けして焼き付ける色絵の技法。
なかには、色絵で有名な九谷焼(くたにやき)や織部焼(おりべやき)を模した作品もあります。 |