明治元年2月朔日
東京大学出版会 昭和2年版「大久保利通公文書2」 #184 |
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幕末維新の動乱は、にわかに歴史の表舞台となった京都の公家達も否応なしに巻き込んでいった。
戊辰戦争折に、官軍の江戸攻撃を指揮した東征大総督有栖川宮熾仁親王もそのうちの一人である。
親王は、17歳の時に孝明天皇の皇妹である和子内親王との婚約を交わすが、その後、幕府や有力諸藩が推し進めた公武合体策のために和宮が徳川14代将軍家茂に降嫁することとなり婚約は破棄されてしまう。
和宮の母である典侍(ないし)橋本経子(つねこ)は権大納言橋本實久の娘で橋本家とのつながりは深かった。 |
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原文は、慶應4年(1868)3月11日 岩倉公旧蹟保存会所蔵
昭和12年 2代目下郷傳平が復刻し橋本家へ献上した特製軸
徳川家の処分を巡って意見が割れていた中、2月15日に有栖川宮熾仁親王を東征大総督とする江戸攻撃軍が東海道、東山道(中山道)、北陸道の三道にわかれて進発した。2月25日にこの報に接した和宮は、徳川存亡に従い、もし徳川の家名が認められないならば死も覚悟する意思を自ら表明して東海道先鋒総督である従兄弟の橋本実梁に書き送っている。
その後和宮は2月30日に帰府した土御門藤子により寛大なる処分の可能性があることを知り、3月10日には再び橋本のもとへ藤子をつかわしてさらなる周旋を依頼すると同時に、翌11日本書を東山道先鋒総督の岩倉具定におくり江戸攻撃の中止を訴えている。この時期、和宮は、戦争回避のため各方面にあらゆる周旋を講じていた。
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