秀吉が鋤鍬を取り集め、石田正澄の命令に従い、尾張国犬山まで運ぶよう命じた文書.本書も、文書形式から天正12年の小牧・長久手の合戦に際しての文書である。 秀吉はこの他にも、4月2日付の朱印状(個人蔵)で、坂本から送られた鍬200挺を尾張針床まで持参するよう、長浜町に命じている。また、8月25日付の朱印状(個人蔵〉では、長浜町の鍛冶に、賀藤小介から鉄10駄を受け取り、鍬を製作するよう命じている。 これらの鍬は、城普請や陣地造成のために大量に必要になったと考えられる。長浜町は秀吉によって、300石の朱印地を認められるなど、多くの恩典を得たが、それはこのような過酷な軍役に堪えた結果であったことを忘れてはならない。
長浜の町人が新銭を鋳造したのに対し、秀吉がこれを禁じたもの。長浜の伝承では、この時鋳造した新銭は、「文禄通宝(「文禄」は元号)」の文字を刻んでいたと言われる。しかし、本書もその文書形態から天正12年のものと推定でき、小牧・長久手合戦の最中のものである。 この合戦に際しては、鉄そのものや鋤鍬などの輸送を、秀吉が長浜町に命じているように、軍用鉄の需要が多くあった。銭は銅製が一般的であるが、鉄製のものあり、ここでは新鋳銭に多くの鉄を使い、軍事用の器具が生産てきなくることを憂慮したのではないか。
長浜城の天守閣を破壌するので、奉行を遣すから協力するよう、秀吉が長浜町民に命じた文書。旧来、この朱印状は「天守壊れ」と読み、天正13年(1585)11月29日の大地震による破損の修理命令とするのが一般的であった。しかし、本書は文書形式から、同年正月の可能性が高く時期が合わない。さらに秀吉は天正11年4月、賎ケ岳合戦に勝利した後、国内の余分な城は破却して、反対勢力の拠点をなくす政策をうち出していた。 したがって、本書は「天守壌(こわ)し」と読み、秀吉の方針に従い、長浜城が一時破却されたことを示す資料と考えるべきである。 なお、天正13年閏8月には山内一豊が城主として入り、長浜城は城郭としての機能を復活させている。
小田原北条氏を討つため在陣中の豊臣秀吉に対して、長浜町が陣中見舞を贈った際の礼状。 秀吉は天正18年(1590)4月2日に箱根湯本に看陣、6月26日に新たに築城した石垣山一夜城に陣を移した。本書は、その直後に出された礼状である。陣中見舞は鳥目500疋とあるので銭5貫文である。奏者(取次役)として見える木下半介は名を吉隆といい、浅井郡尊勝寺(東浅井郡大字尊勝寺)にある浄土真宗寺院・称名寺住職の弟であるという。秀吉に近仕して活躍したが、関白秀次事件に連座して失脚した。
朝鮮出兵のため肥前名護屋城に在陣中の豊臣秀吉に対して、長浜町が陣中見舞を贈った際の礼状。秀吉は文禄元年(1592)正月、諸大名に朝鮮出兵の命を下し自らは4月25日に前線本部となった名護屋城へ入った。一時大坂に帰ったが、翌年8月まで同城で生活している。 本書は在陣当初である文禄元年6月28日の朱印状と解するのが自然であろう。陣中見舞は北条氏攻めの時と同じく、烏目500疋であるので銭5貫文である。長浜からの名護屋への陣中見舞は、翌年4月28日付けの長浜惣中宛の秀吉朱印状(現在行方不明)があり、もう1回贈られていることが分かっている。 2回目の見舞は鮒鮨1桶で、秀吉への仲介役を果たした木下吉隆の添状によると、長浜町からの2人の使者は、秀吉と共に観能する機会を許され、歓待を受けて帰途についている。 本書の奏者の孝蔵主は、秀吉及びその室(高台院)の侍女で、本書の添状も出しており、同じく下郷共済会の所蔵となっている。